2014年
12月2日(火)
机の引き出しに、もう三十数年眠っている小さな箱がある。顧客からお預かりした花札の箱。
もちろん、堅気の奥さまで我家へ来られた時その箱を前に置いて、これから少しずつ花札の中から
デザインしたきものを染めてほしいと仰った。内心、私は驚いた。それまで花札に触れたことも、
よく見たこともなかったし、強烈な色彩と、博徒や粋な姐さんの姿が頭に浮かび、困ったなあと思いつつ
小さな箱を眺めていた。しかし、それは杞憂に終わった。その方は以後次々と御註文を下さったが
ほとんどお任せで花札を話題になさることはなかった。預けたことを忘れていらっしゃるのかも知れないと思い、
お返しすることも考えたが何となく御縁が切れるようでそのままになっている。
今回初めて箱を開け、机の上に並べてみた。花札といえば赤と黒と白の色彩を思い浮かべるが松、桜、菊など
十二種の植物がそれぞれ四枚ずつ異なるデザインで描かれ、全体で日本の四季が表現されている。
無知を恥じ入るばかり、今更ながら預けられた方の深意を知ることになった。
花札をお預かりした前後、新宿で観た軽演劇にトランプ文様の帯が登場した。赤い地色に黒の大きなスペード♠
の帯を粋な姐さん役が婀娜っぽく締めていた。客席には石井ふく子プロデューサーやニューハーフの人達もいて
熱気があり、私もほろ酔い気分だった。舞台の黒いスペードを追いながら、トランプ文様の図案をあれこれ考えてみた。
以来、遊び心のある個性的なトランプ文様は私を魅了し続けている。
トランプ 本友禅帯 太鼓の模様
前の模様
本友禅帯
11月11日(火)
クルーズ船の結婚式に招かれ、久し振りに郷里の親戚と和やかな時間を過ごした。
母が仲良くしていた90歳近い叔母も上京したので、母の戦前の帯を締めて行った。予想通り昔話を聞くことができた。
きものは金銀糸で短冊を織り
出した生地に、百人一首の歌を書いてもらった附下を合わせた。
衣桁に掛けたこのきものを
眺めていると、字を文様にした幾つかのきものを思い出す。
友人の紹介で親しくなった方が能装束人形の文様できものを
誂えられた折、その方が長く書道を習っていて
務めている会社の賞状や熨斗袋などの字を任されていると伺ったので、文様のバックに御自分で謡を入れては
どうでしょうと勧めてみた。最初は驚いたような顔をなさったが、「やってみましょうか」ということになった。
紙に書くことに慣れていても、生地では要領が違う。墨で書くのがベストだが生地に定着するのに時間がかかるので、
雨に降られたり飲物をこぼしたりすると滲むので、きものの
場合は染料で書き、他の文様と同じように色止め加工
をする。とろみをつけたグレーの染料を用意し、休日に練習も含め二日ほど拙宅にお出まし頂いたように思う。
柔らかな字で染め上がり、その後何度かメンテナンスでお預かりしたが、まだまだお召しになられるはずだ。
友禅染の教室に、御主人が書道自慢で年賀状を毎年何百枚?も書くと呆れ交じりに話す方が通われていたので
色留袖を染められる折、御主人にも参加して頂くことを勧めた。古典的な唐獅子と巻物の文様にして、巻物の
白紙の部分に御主人の字を入れてはいかがでしょうと。御主人は大層喜ばれ、実行することになった。
ただ、教室へお出で下さいとはいえないので「墨を濃くなさらないように」という祈るような伝言のみで、御自宅で
書かれることになった。(墨を使ったのはこの色留袖だけ) 流石に見事な出来映えで格調高い色留袖になった。
力強くなる男性の字を考慮して、地色は高麗納戸に決めていた。御主人の鼻高々な御様子が目に浮かぶようだった。
濃い緑がかった青
10月2日(木)
<高峰秀子の流儀>という本が大きな書店に平積みされ
たのは四、五年前だろうか。高峰秀子さんは
華々しい経歴を持つ昭和を代表する女優だが一九七九年、五五才で引退されてからほとんどマスメディアに
登場することがなかったので、本の表紙を見た時その健在ぶりに思わず口元がほころんだのをのを覚えている。
残念なことに本が出版された年の暮に亡くなられ、最近になってこの本が若い女性によく売れたという書評を読んだ。
若い女性に?? 高峰さんが
活躍した時代を知らない彼女達はきもの姿の表紙を見て、
「このキリッとしたおばさまは何者だろう」と思ったらしい。私の口元はまたほころんだ。若い女性の感性はスゴイ、
その感性に訴えた高峰さんの佇まいもスゴイ。
私が小学校へ入学する少し前、生まれ育った四国高松の商店街のおかみさん達がお客を巻き込み井戸端会議ならぬ
店先会議に熱中していたことがあった。そのかまびすしさは周囲を圧倒し、何事が起ったのだろうと思った。
後で分かったことだが話題は<二十四の瞳>の
撮影で小豆島へ来ている高峰さんのことで、おかみさん達の興奮が
ピークに達したのは、修学旅行でこんぴらさんへ行く場面のため高峰さんが高松に宿泊した期間だった。
映画が最高の娯楽だった時代、女優が地元に来るというのは大事件だったに違いない。
二、三年後、<喜びも悲しみも幾年月>と
いう高峰さん主演の名作も、高松から手に取るように見える男木島で
撮影が行われた。そういう訳で、よく名前を聞かされ、出演作品もいくつか観ていたが、高峰秀子という存在を
意識したのは友禅の仕事について何年か過ぎ、テレビの深夜番組で<女
が階段を上る時>という映画を観た
時だった。銀座のバーの雇われマダム役で、ストーリーには関心なかったが高峰さんが着ている胸の透くような
きものに目を見張った。マダムだからといって派手でも豪華でもなく、モノクロ映像の効果を充分にねらい
縞を基調とした知的で、洗練されたきものだった。、細い縞が横に段々太くなる反物を突き合わせに仕立て両袖口が
太い縞になったもの、それから上前と左袖が縞、下前と右袖が黒無地の片身代わりのものなどが印象に残っている。
こんなハイセンスな衣裳を考えたのは只者ではないと思い調べてみると、担当は高峰さん自身だった。感服の一言。
高峰さんが書かれた自伝やエッセイを読んでいると、プライベートなきもの姿の写真も載っている。
やはりスッキリとして、辺りに引き締まった空気が漂う。きものの選び方、着こなし方はそのまま、生き方でもある。
<高峰秀子の流儀>の表紙は穏やかな佇まいながら、潔い気性と知性を秘め、無言のメッセージを発している。
9月1日(月)
白石加代子さんの百物語ファイナル公演、<天守物語>を
観に行った。満員御礼。
タイムリーにNHKのETV特集で稽古風景など、二十二年に渡る百物語との奮闘ぶりが放映された。
白石さんは家計を支えるため、まず社会人として働き、遅咲きで演劇界へ入り大輪の花となった女優。
誰もが認める実力派だが、百物語という朗読中心の一人舞台は出来上がるまで孤独な作業が続き、
衣裳の温もりに体が突き動かされたこともあったという。その衣裳とは、十七歳の誕生日のために
お母さまが厳しい家計の中、工面をして買ってくれた友禅染のきもので、百物語の舞台にも使ったそうだ。
お母さまは娘の行く先に何かが見えていて後押しをしてくれ、十七歳の初々しく着飾った写真も残して
くれている。ファイナル公演に臨み、その古代紫のきものを箪笥から出し、畳み直しながら愛おしそうに
見入る白石さんは、舞台とは全く違う静かな顔をしていた。
今回の<天守物語>の衣裳は演出家が天空の世界をイメージして誂えたとのことで、濃紺の地色に
腰から下がブルーと薄いピンクにぼかされ、その上に霞のような雲のような文様が浮かんでいた。
以前、杉村春子さんが主役を演じた<天守物語>の衣裳も、やはり霞のような雲のような当時流行していた
大田子(だいでんし)滲み染で統一されていたことを思い出しつつ楽
しんだ。
地色の緑が大田子滲み染
7
月2日(水)
夏の訪問着
芙
蓉は美人のたとえに使われるが、半年かけてこの花の文様で訪問着を染めた。夏
用なので生地は立絽。
昨年の暮れに御註文を頂き、文様のこと、生地のこと、地色のことなど、ゆっくりお話をしながら決めた。
花も葉も白の濃淡を基調とし、グレーやブルー系のぼかしを多用、涼しさを醸すためのプラチナ箔、後方に観世水。
来月、国際的な催しでお召しの予定と伺っている。
6月16日(月)
<赤毛のアン>を
日本で最初に翻訳したことで知られる村岡花子さんの展示会が郷里の山梨県立文学館で開かれていると
新聞で読んだ。生涯きもので通されたようで、新聞には愛用の帯留がカラー写真で載っていた。百個ほど所持されていた中の
三個だが、写真を見た瞬間アレッと思った。祖
母から譲り受けた象の帯留と同じものがあった。
私は洋装のアクセサリーにはあまり興味がなく、不思議と帯留には心惹かれる。普通の帯締はほとんど使わず二分紐や
三分紐で帯留を楽しんでいる。祖母から重ね扇の理平焼をもらった時は嬉しかった。「理平さんのやから大事にしまい」と
祖母が力を込めていったことを思い出す。「しまい」は、「しなさい」という意味の方言、理平焼は高松の藩窯で、高松仁清とも呼ばれている。
アシスタントをさがしていた西武デパートきもの工房の女主が、私の面接の時に使っていたのが陶芸の富本憲吉作の帯留だった。
陶地に四弁花を薄い藍色で軽やかに描いたもので、富本氏の陶芸をまだ知らなかった私はその帯留に釘づけになった
。
上の空で話を聞きながら、こういう帯留を身につける人ならアシスタントになってもいいかなと思った。
上の象が村岡さんと同じ帯留。下の左が理平焼の重ね扇、右が九谷焼の山茶花。
和装は、きもの、帯、長襦袢、小物など色
の組み合わせで雰囲気が変わる。組み合わせの画竜点睛が帯留だと思う。
五月の終わりから六月にかけて出番がある、私のお気に入り紫陽花の彫金帯留。若い頃、銀座で求めた。
4月8日(火)
袖なし羽織
上の写真は、私の小学校の卒業式に母が着ていたきものを仕立て直した袖
なし羽織。母のきものは遠くから見ると
光線の具合で黒字に赤の竹が浮き立って見えた。嫁入り支度の中の一品で辛うじて戦火を逃れ、タンスからこのきものが
出されるのを見ると改まったお出掛けだと分かった。駒お召し(?)といっていたがシャキシャキした織で、私も大人に
なってからきものとして着てみたかったが、すでに裾の辺りが擦り切れていたのでその部分をカットし、長コートとして愛用した。
そしてまた裾や袖口が傷んだので袖なし羽織になった。当分着られそうだが派手だと感じるようになれば、鏡掛けや手提げ籠、.
更に針山や守袋などになり、美しい布は長く生き続ける。
羽織の裏はやはり戦前のもので、祖父のか父のか判然としないが、洗い張りをしてあったので使ってみた。
地球儀を持つライオン、何か意味があるのだろうか。御存知の方がいらしたら教えて欲しい。
2月8日(土)
立春にも雪が舞うのを見たが、今日は朝から雪。外出できそうにないので古いきものの手入れをすることにした。
手入れといっても畳紙や乾燥剤を新しくする程度で、時間に余裕があれば楽しい作業だ。一枚一枚にそれを買ったとき、
着た時などの場景が浮かび、過ぎ去った月日を蘇らせてくれる。
このピンクのきものは一九八〇年前半に見本用として染めた。古い私物と一緒になっているのはブリュッセルの劇場で
着たからだ。私は自分で染めたきものを着ることを好まないし、ピンク地にも抵抗を感じたが一人で参加する外国旅行なので
思い切った。劇場へ行った日、ブリュッセルも雪だった。深夜ホテルへ帰る時には止んでいたが、近くの教会の横の道が凍り、
巨大な滑り台になっていた。草履で歩くのは至難の業だったが若かったからだろう、滑らず、転ばず、ホテルへ帰れた。
その時のホッとした写真。
1月6日(月)
黒繻子に三番叟人
形を刺繍した戦前のものらしい帯が、母の箪笥に子供の頃から仕立ないまま入っていた。
きものに興味を持つようになって何度か出して眺めてみたが、配色がどうしても好きになれず、またしまい込んだ。
能楽で狂言方によって舞われる三番叟を観て、そ
の意味や魅力を知るようにな り改めてこの帯に向き合った。
好きになれなかったピンクと紫は、化学染料のローダミンとメチルヴァイオレットで染められた糸で、戦前の流行を
伝える貴重な資料だと思えるようになった。仕立ると鈴や烏帽子など刺繍の細やかさが際立ち、一、二度締めたが
黒繻子のしなやかさは格別だった。
今月は九十才を越された国文学の先生の誕生会があるので、お健やかさを願い二十年振りにこの帯を締めようと
思っている。
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