2018年
12月6日(木)
目白台の"永青文庫"へ行きました。資料室の大きなテーブルに並べられた図録の中で、ブルー地の打掛をまとう愁いある
美女の表紙は際立っていました。手に取ると意外にも橋本明治画伯の筆で、19才の時に描いた細川ガラシャでした。
ガラシャの時代、友禅染の技法はまだ完成されていないはずですが、柔らかく見える打掛は織ではなく染として描かれて
いると思います。模様の雪輪も散る桜の花びらと季節的に矛盾しますが、ブルー地の打掛は目を閉じた表情とともに、祈りを
ささげるガラシャの気高く静寂な心情を見事に伝えてくれます。橋本画伯の出身地、松江の”島根県立美術館”蔵の作品。
11月14日(水)
七五三のお祝に壽の字を朱、緑、紫の染料で描いた被布を親戚の周(あまね)ちゃんに着てもらいました。
三才の周ちゃん
東京大神社にて
黄色は周ちゃんの好きな色だそうで、神社がプレゼントに用意した五色ある風船も、迷わずに黄色を選びました。私も誘われて
お祓いに立ち合いましたが、伊勢神宮の遥拝殿という東京大神社は大賑わいでした。境内に伊勢名物の赤福とお茶のコーナーも
あり、皆で頂こうと係の巫女さんに「お幾ら?」と支払いを尋ねると「お気持ちで」と床しいお返事。晴天に恵まれ爽やかな一日でした。
11月7日(水)
11月に入ると神社の近くなどで七五三の晴着姿の子供達を見掛けるようになります。下の写真は友人のお孫さんで、7才の時に
折鶴と唐扇文様の晴着を納めました。テレホンカードで、ほんのり微笑む彼女も現在は大学生になっています。
7才の晴着は本裁ちといって、大人用の生地を使って染めますので仕立直せば訪問着としお召しになれます。
先日、久し振りに2人で食事をし、話題はきもののことになりました。卒業式にどのようなきものを着るのか尋ねると
この紫のきものに袴を合わせるつもりで、もう大人用に仕立直してあるというお返事だった。恐れ入りました。
袴は紺or海老茶どちらでも合いそうですね。
地紋も折鶴の生地
10月4日(木)
さぬきの獅子舞
子供の頃、「さぬきの獅子舞の油単(ゆたん)は絹だよ」と自慢そうに聞かされましたが、長い間、意味を理解できませんでした。
油単とは獅子の胴になる布のことを差します。一般によく見かける油単は、型染で緑地に白い唐草模様を染め出したシンプルな
デザインが多く、生地は木綿です。さぬきの油単は絹を使い、友禅染と同じ工程の筒糊で輪郭を作り絵を描くように染めます。
模様は極彩色の武者絵が多く、子供の頃はそのおどろおどろしい躍動感に惹かれ、獅子舞を追っかけて歩きました。
鬼若の油単 (鬼若は弁慶の幼名)
那須与一文様の油単
さぬき高松の街中には江戸時代から続く”大川原染色本舗”があり、油単も地元で染めています。大漁旗、神社幕、暖簾、手拭い風呂敷など
広範囲な染物を手がけています。七代目となる御当主は京都の美術大学時代、私が懇意にしている”和染紅型 栗山工房”へも出入り
なさっていたことを知り、とても嬉しい気持になりました。お会いしたことはありませんが実家の暖簾を、鈴のデザインで染めてもらいました。
かって村上水軍を代表とする海の民が伝えたともいわれる筒描友禅染に何時かチャレンジしたいと思っています。
9月9日(日)
菊の帯
九月九日重陽の節句になりますと中学生の時、国語の女姓教師が話をしてくれた<菊花の約(ちぎり>を思い出します。
旅先で病気になった武士が、助けてくれた清貧な学者と心を通わせ義兄弟の誓いを交わします。いばらくして武士が
「来年の九月九日に必ず帰る」といい残し生国へ赴きます。しかし政治的な成り行きで牢屋に入れられたまま九月九日となり、
約束を果たせなくなった武士は「人一日に千里をゆくことあたわず。魂よく一日に千里をゆくも」という古い諺を頭に浮かべ自刃します。
その夜、菊花と酒肴を用意して待つ百里離れた学者の前に、武士は幽霊となって表れるます。命がけで約束を果たしたこの話に私は
痛く感銘し、今でも先生のしゃがれたような声や潤んだ大きな目を思い出すことがあります。
帰ろうぞ一夜百里を菊節句
俳句の会に入った初期に作った拙句です。私は会場へは出向かず投句にさせてもらっていますが、会場の男性達は<菊花の約>に
因んだ句だと直ぐに分かり、笑っていたそうです。
菊の帯 前
8月2日(木)
もう三十年ほど経ちますが<夏・南方のローマンス>という舞台を観て忘れられない衣裳があります。主役の女芸人が着ていた絽のきもので、
萌黄地に白いバラと黒い枝葉の連続模様でした。恐らく大正から昭和初期の型染だと思います。そのきものが放つ風情を何とか自分が染める
きもので表現したいと思いつつ、手描友禅では時間がかかり過ぎて果たせないままになっています。
女芸人を演じる樫山文枝さん
つい最近NHKのテレビドラマ<花へんろ>が再放送され、主役の桃井かおりさんが舞台と同じきものを着ている場面があり目を見張りました。
同じきものを着ていたことがどうしたといわれればそれまでですが、私はその偶然を称えたいのです。
<花へんろ>の桃井かおりさん
記憶というのは曖昧なもので、私は<花へんろ>を一九八五年から八八年にかけ、通しで全部見たつもりでいましたが、途中からだったようです。
大方の人達が日常をきもので過ごす戦前のドラマでアンティークなきものが次々に出るのと、桃井かおりさんの母親振りが秀逸だったことを
覚えています。昨年亡くなられた早坂暁さんの脚本で、瀬戸内の長閑さを感じさせてくれる背景とともに戦争が書かれています。1987年上演の
<夏・南方のローマンス>は木下順二先生の戯曲で、南の島のB・C級戦犯裁判を取り上げています。衣裳担当には女性の名前があり
松竹衣裳も関わっているようですが、どういう経緯でテレビドラマにも同じきものが使われたのでしょうか。芸能関係の衣裳店が所有するきもので、
それぞれの担当者が偶然に同じものを選んだという、ただそれだけのことかも知れません。しかし、一度舞台を観ただけで何年も忘れられず
再現したいと思わせるきものは他にありません。私はこのきものに力があったと思いたい。主役に着せたいと思わせる力、制作者の心を込めた
熱意を感じるのです。
7月8日(日)
日本橋の三井記念美術館で<金剛宗家の能面と能装束>展が開催され、豊臣秀吉が愛蔵していた小面、雪・月・花のうち、花と雪が並んで
展示されています。”花の小面”は重要文化財で三井記念美術館蔵、”雪の小面”は金剛宗家蔵です。
左が花の小面 右が雪の小面
私はこの”花の小面”にいささか親近感を抱いています。
友禅の仕事を始め親戚の家から通っていた頃、工房の近くに塀で囲まれ木々が生い茂り、人気のない一郭が
ありました。木戸の上にも枝が垂れ下がり最初は気がつきませんでしたが、三井文庫という白い陶地に黒い字の
小さな表札がかかっていました。三井財閥系の資料を保管しているのではと思いました。
すでに自立して順調に仕事を続けていた1985年、その三井文庫が美術館として公開されることになりました。
日本橋の三井記念美術館に比べれば何分の一かで、広くはありませんが展示品は充実していました。円山応挙の
”雪松図屏風”、本阿弥光悦の”志野茶碗 卯花墻(うのはながき)”など国宝もあり、名前だけ知っていた
”花の小面”にも会えました。当時、三井文庫へは自宅から歩いて十分位で行けました。最寄駅は西武新宿線の
新井薬師前で、公開中は茶道関係のきもの姿の女性達がグループで訪れていました。電車を降りて新井薬師ではなく
反対の静かな住宅街へ向かうので、美術にあまり興味のない住人の方々は何事だろうと思ったようです。
そして2005年、美術館は日本橋へ移転します。
日本橋でまた会えた”花の小面”は以前と変わらず色白であどけなく、傷もほとんどありません。大切にされて舞台では
ほとんど使わず、箱入り娘のように秘蔵されたままになっていたのではないでしょうか。
久し振りに”花の小面”に会え、初めて会った場所へ行ってみたくなり、翌日、現在は電車に乗って2駅の三井文庫へ。
仕事を始めた工房はこの近くにあり、毎日この前を歩いて通っていました。
2018年 7月 現在の三井文庫入口
6月6日(水)
こころをばなににたとえん
こころはあじさゐの花
ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思い出ばかりはせんなくて
萩原朔太郎
紫陽花を見ると朔太郎の”こころ”という詩の冒頭を口ずさんでしまう。
朔太郎の若い頃の詩だと思うが、私が読んだのも仕事を始めたばかりの若い頃だった。
紫陽花の文様は帯によく使った。見本を染めると直ぐに希望者が現れる。高松の個展に
出した帯も、通りすがりの初対面の方がお買い上げ下さった。
高松の個展に出品した帯
以下、一九八〇年代に染めた紫陽花の帯の一部。ぼんやりして見づらいが私の知識では
修整不可能、悪しからず。三種とも帯のお太鼓部分。
6月1日(金)
オモダカにカワセミの訪問着
仕立上がったばかりの夏の訪問着。
お召しになるのは七月と伺っているが承ったのは昨年の暮れで、年明けから
図案を考え始めた。オモダカ、カワセミ、紫のぼかしは御本人の希望。
紫と相性のよい浅葱のぼかしを合わせ、少し個性的な流水で裾を引き締めた。
船上でお召しとのこと、仮絵羽で試着なさった時「写真送るね」と嬉しそうに
いって下さった。
船上でお召しになられた後、パーティーに出席され折に<美しいキモノ>の編集者に
声をかけられ、写真が記載されたという御報告もあった。
後
胸
4月6日(金)
夜桜美人図 葛飾応為筆
以前、何度も写生に行った上野公園の秋色桜のことを書いたが、葛飾北斎の娘、応為の
”夜桜美人図”はその桜を題材にしていると知り驚いた。秋色桜は江戸時代の俳人秋色女に
因む名で、彼女は小網町の和菓子屋の娘だと解説板にあったように記憶している。私は
漠然と江戸時代の町娘、島田髷に黄八丈のきものなんかをイメージしていたが、応為の
美人図は裾ふきにタップリ綿の入った大振袖を重ね着した妖艶な貴婦人。桜も現在の
楚々とした枝垂れではなく、大きく豊かな花である。この絵の価値はきものや花のディテール
ではなく明暗の表現にあるのだが、応為がなぜ秋色女をかくも豪奢に美人に描いたのかと
考え、小学生の頃教室でお姫さまの絵を描くことが流行ったことを思い出した。休み時間に
できるだけ可愛い顔で、綺麗なきものを着せた絵を並べ、皆でたわいなく批評を楽しんだ。
北斎の弟子が描いたという応為の姿は片膝を立て、接ぎのある半纏を着ている。小学生の
女の子がお姫さまに憧れたように、応為も自分の境遇とは違う世界に憧れたのだろうか。
幕末の上野の秋色桜を見て元禄の俳句を好む娘に思いを馳せた応為、そしてその描かれた
絵を眺める私、繁雑なのに単調な生活、夢想することの自由、今も昔も変わらずに虚実入り
交じる日々の中、最後には美しいものだけが陽炎のように浮かび立つ。時の流れを仄かに
感じる春宵である。
3月12日(月)
初めてすみだ北斎美術館へ行った。JRの両国駅からは少し歩き、メトロ大江戸線の両国駅近くにある。北斎はこの辺りで生まれたらしい。
一昨年の秋に開館し、連日混み合ったようだが、現在は落ち着いてゆっくり鑑賞できる。意外なことに展示場の入口にきものが2点飾られていた。
染なので友禅かと思って近くに寄ると小紋だった。地元の江戸小紋師が北斎の”富嶽三十六景をテーマとし、60〜70枚の型紙を使い、4ヶ月かけて
染め上げたと解説にあった。
深川万年橋下
本所立川
展示場の中にも、一九八七年ボストン美術館で発見された北斎の”新形小紋帳”のデザインから
型紙を起こし染められた小紋があった。こちらは撮影禁止で残念だったが、焦茶地に深緑の七宝が
並んだ小紋で、遠くからは無地に見えた。以前、北斎を特集したテレビ番組で女性アナウンサーが
”新形小紋帳”のデザインから染めたという藤色の小紋を着ていたことを思い出した。
多才な北斎の作品群を鑑賞しながら、尾形光琳の冬木小袖のような直筆のきものを北斎も描いた
ことがあるのではと考えたりした。
3月4日(日)
町でこの紙袋を見かけるようになって久しい。日本橋、銀座界隈を歩く女性達が持っていることが多く、
三越で買い物をしたのだと直ぐに分かる。紙袋のデザインが変わったことに関心を示す人達がどれほど
いるか分からないが、私は初めて見た時ハッとした。きもの文様だ!
京都の友禅作家、森口邦彦氏のきもの文様が、五十七年振りに変わる三越の紙袋のデザインに選ばれた。
森口邦彦氏のきもの 1970年代後半
私が西武デパートの誂染コーナーにいた頃、森口邦彦氏はフランス帰りの新鋭作家で幾何学文様を
得意とされていた。ある日コーナーの机の上に畳んだ白地のきものが置かれていて、グレーとローズの
二色の濃淡彩色、そのローズ系が何とも甘く艶やかで見とれていると、係長が「どう、買わない?」といい、
私はつい「いいよ」と答えてしまった。
後で邦彦氏のきものと知り驚いたが、広げて見てそのデザインにまた驚き、感心した。
上前の裾
後の右肩
右の袖口から左に、下になるほど長方形が細くなるデザイン、今見ても斬新だ。衝動買いしたこのきものは
訪問着なのに仰々しくなくお洒落で、不思議なことに着ると気分も軽やかになる。どんな帯も合わせやすいが、
孔雀文様の袋帯がベストだった。
グレー系かベージュ系で色揚げすれば鮮やかなローズも地味になり、まだまだ着られるが白地の爽やかな
ままで、若い方に譲りたいと思っている。
何年か前の大晦日、<紅白歌合戦>でユーミンが颯爽と着ていたのも邦彦氏のきものである。
2月20日(火)
サントリー美術館へ<寛永の雅>を見に行った。元号を冠する会場には、仁清の初期の素朴な
茶碗や茶入、遠州が秀忠、家光父子を招く茶会のため、光悦に依頼した野趣あふれる茶碗などが
展示されていた。
私が特に興味深かったのは、日本で最も豪華絢爛な婚儀の行列が二条城から御所まで続いたという
後水尾天皇の中宮和子(まさこ)の入内図屏風と、中宮自身が着用したと伝わる腰巻だった。
中宮は家光の妹君である。
黒綸子地斜格子菊吉祥文模様絞縫腰巻
中宮和子は後水尾天皇退位後、東福門院と呼ばれ二十三才でほぼ隠居のような境遇となり、
将軍家の莫大な支援のもと衣装に情熱を傾ける。年間五千両以上発註したとか、七十才で
没した時、呉服商の註文帳に三百四十枚の未納品があったとかで、衣装狂いといわれている。
註文を受けていたのは光琳・乾山兄弟の生家である”雁金屋”。この頃光琳達はまだ生まれて
いないが、秀吉夫人の高台院、お市の方の娘三姉妹など超セレブ客を有した雁金屋は御所にも
出入りすることとなり絶頂期を迎える。この絶頂期は光琳達が生まれ青春を過ごすまで続いた。
こうした勢いは染色の技術や意匠の洗練を高め、東福門院は自身の贅沢だけでなく、
きもの文化の発展にも貢献したといえるだろう。また東福門院は十二単の下着だった小袖を
表着として初めて御所へ持ち込み、広めたともいわれている。その小袖が、現代の私達が
着ているきものの原型となった。
2月4日(日)
雪の季節になると久保田万太郎の微笑ましい俳句を思い出す。
泣きむしの 杉村春子 春の雪
久保田万太郎は俳人、劇作家であり、劇団文学座の創立メンバーでもあった。そして
杉村春子さんはその劇団の看板女優。襟元をゆったりとしたきものの着こなしは抜群で、
近松、鏡花、一葉の演目など、杉村さんがきもので出演する舞台は晩年まで観ているが
都落ちして横浜へ流れる吉原芸者役の<ふるあめりかに袖はぬらさじ>は忘れ難い。
<ふるあめりかに袖はぬらさじ>の杉村春子さん
リズミカルな台詞回しで満員の客席を抱腹絶倒させたこの舞台は新聞の劇評でも絶賛され
着ている青いきものまで褒められた。当時、劇評で衣裳に言及することは皆無だった。
この青いきものは縞だが、織ではなく染。作者に京都のパーティーでお会いし言葉を交わした
こともあるが、ローケツ染を駆使するその男性は劇評には関心がないようだった。
久保田万太郎の戯曲も文学座で繰り返し上演され、杉村さんの細やかな情感は余韻を残した。
1月1日(月)
今年の成人式のための振袖
グレー地の御希望で、ほぼ一年がかりで染めた振袖。以前、振袖を染めながら体力的に考えて、
これで最後かなと思っていたが、初めてのグレー地の御希望に俄然闘志が湧いた。とても新鮮な
気持ちで仕事ができた。昨年の夏に染め上がり、写真は暑い八月に前撮りして送って下さった。
身頃
袖
袖
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