2024年
7月22日(月)
随分と以前のことだがアルバムにある弟のお宮参りの写真を見ていて、祝着が石持(こくもち)のままだと
いうことに気が付いた。石持とは既製品など家紋を描き入れる部分を丸く白抜きにして染めたものをいう。
そばで母が縫物をしていたので「どうして紋を入れてないの」と聞くと「戦時中だったから」と素っ気ない
返事だった。ぼんやりしているので暫くしてから、私が戦後生まれなのに弟が戦時中とは変だと思った。
そしてよく考え、祝着は私が生まれる前に亡くなった兄のために用意されたものだと思い至った。
兄は終戦の年、1945年4月に生まれ、次の年の7月に亡くなっている。
薄茶の壺柄は黒紋付の下に着せる重ね着。家紋の上描きをする職人さん達も出征し、石持のままなのは残念だが、
戦時中は衣類の入手も自由にならず切符制だったと知ってからは、ありがたい品だと思っている。
兄のお宮参りの後はおそらく郊外の母の実家に預けられていたのだろう。住んでいた高松市は終戦が近い7月の空襲で
大半が焼けてしまった。弟も同じ祝着でお宮参りをしてから70余年過ぎた。家紋を入れなかった理由は敢えて
尋ねなかった。現在はトランクルームのケースに入れていて1年に1度乾燥剤を入れるだけ。この所、外出できない
暑い日が続いているので10年振りに虫干しのつもりでケースから出してみた。シミもなく不思議なほど
昔と変わっていなかった。
子供のきものの紐には必ず背守りに似た糸飾りを縫い付けてある。色々な形があり、幼い頃から私は
その糸飾を眺めるのが好きだった。
白
桃や二歳の兄の遠忌なり
6月8日(土)
トルコ
イズミール 仲の良い家畜たち
トルコを訪れたのは刺繡や染織、書道な
どの作品を展示して現地の人たちに見てもらう文化交流でした。
三十年近く経って写真や絵葉書を整理していると様々なことを懐かしく感じますが、トルコでは特に
犬たちのゆったりと伸びやかだったことが印象に残っています。家畜たちも同様、きっと大切にされて
いたのでしょう。
イスタンブール ベテランの織物師
アナトリア 織物に興味を持ち始めた女の子
トルコへ行く前から決めていたことがありました。私が染める帯とほぼ同額のトルコ織物を買って帰ろうと。
もちろん絨毯が無理なこと位は分かっていましたが、その他にどのような形?のものがあるのか知りません
でした。織りに携わるのは若い女性が多いと聴き、布を使う手仕事の私は何となく親近感を覚えていたのです。
イスタンブールで求めたトルコ織物
私は工房のような所で求めるのを希望したのですが、案内されたのは立派な織物会社でした。
写真は42cm×60cmの恐らく玄関マットだと思いますが、模様の上下がハッキリしているので壁飾りと
して使っています。糸は絹、天然染料(日本では草木染めという)で保証書付、最初から色彩とデザインは
好みで予算のみ心配でしたが、ほぼ解決。後日イスタンブールを散歩すると物価は日本の6分の1でした。
エジプト
カイロの織物工房
エジプトでは、私が友禅染をしていることを知った添乗員さんが織物の工房へ連れて行ってくれました。
十人ほどの少年たちが横に並び黙々と織っていました。材料の糸が太い木綿だなあと思って眺めて
いると、直ぐそばの少年が顔を私の方に向け、手で何か合図をしました。どうも「織ってみないか」と誘って
いるようでした。ニコリともしませんが聡明な目をしていました。願ってもないことで、拙い英語と身振りで
私は暫し貴重な体験をしました。嬉しかったのは空港で初めて会った旅行仲間が嫌な態度をせず一緒に
工房へ来てくれ、帰りには少年たちが織った作品を沢山買ってくれたことです。もちろん私も買いました。
クレオパトラの壁飾りです。
5月4日(土)
ああ阜月仏蘭西の野は火の色す君も雛罌粟(コクリ
コ)われも雛罌粟(コクリコ)
この短歌は与謝野晶子が夫の鉄幹を追って五月のフランスを訪れた時に詠んだものです。
鉄幹に会えた喜びを野に咲くヒナゲシの生命力あふるる美しさに込めたように感じられ、鮮やかです。
フランス語のコクリコが愛らしく、そのリフレインは幼児にかえったような無邪気さを醸し、笑みが浮かびます。
五月になると何時も私はこの短歌を思い出しますが、ヒナゲシに関してはもう一つ思い出があります。
子供の頃に郷里の高松で行われた盛大な植木市です。やはり五月の連休だったので従妹弟たちを誘って
賑やかに出かけました。八幡神社の一キロ以上ある参道の両脇に植木や花の苗が並び、甘いサトウキビも
あったので、弟たちはそれが目当てのようでした。子供だったので植木の種類は分かりませんでしたが、
花は親しみやすいものが多く、アネモネやヒナゲシもありました。ただ不思議に思ったのは風に揺れる黄色
やオレンジ色のヒナゲシに、どの店も”アチャコ”という名札をつけていたのです。当時アチャコといえば
誰もがラジオで人気の漫才師を連想しました。まだテレビは普及していませんでしたがアチャコの出演した
ラジオドラマが必ずといっていいほど映画化されたので国民的な芸人、俳優でした。優しいお顔でしたが
五十七、八歳、当時としてはお爺さんなので、どうしてもヒナゲシと結びつきませんでした。大人になってから
気がついたのですが、アチャコさんの芸名は”花菱アチャコ”だったのです。皆さん親しそうにアチャコ、
アチャコといいましたが正式には”花菱アチャコ”、そして花菱はケシ(罌粟)の一種なのです。
改めて植木屋さんたちの遊び心に乾杯!でした。
若いころに遊び心で描いたスカーフ
4
月26日(金)
新宿区高田馬場は染色に関わる人達にとってなくてはならない町でした。神田や浅草に集中していた
染色職人が、神田川上流の澄んだ水を求めて移り住むようになったのは明治になってからと聞いて
います。友禅染もその頃から東京で始まったのでしょう。高田馬場駅から西武新宿線下りに乗ると
次の駅名は下落合です。神田川と支流の妙正寺川が合流する場所が落合といわれ、
上落合、中落合、西落合などと広がり静かな環境なので染色職人が多く住むようになりました。戦前、
妙正寺川では反物を洗う風景(京都では友禅流しといわれた)が見られたそうです。きものを染め
上げるには様々な工程があり、中心となる高田馬場にはそれに応ずるあらゆる業者が集まっていました。
染色の材料店も三軒あり、出版を兼ねていた店がバブル崩壊とともになくなり、続いてもう一軒、そして
昨年は残っていた顔料の開発や染色教室に積極的だった店も思いがけない廃業となりました。
京都、金沢と並び染色の三大産地といわれた東京、その中でも高田馬場界隈には活気がありました。
現在は過去形でしか語れない状態ですが、私には闊達な職人仲間の笑顔が、ついこの間のようにしか
思えないのです。
早稲田大学演劇博物館
仕事で高田馬場へ出かけるようになってラッキーだったのは早稲田大学演劇博物館の展示を頻繁に
観られたことです。引き染の作業場が近くにあり、高田馬場駅から”早大正門行き”のバスに乗って
終点まで行きました。エンパク(演劇博物館の愛称)には、荷物が少なく時間に余裕がある日を選んで
寄りました。かなり御無沙汰でしたが今年になって”新収蔵品展”の前期を三月に後期を昨日観ました。
散らしの部分 初代歌川豊国筆 ”九変化図屏風”
花柳章太郎が“風流深川唄”で着用した婚礼衣装
前期で印象に残ったのは新派の花柳章太郎が舞台で着用した婚礼衣装でした。会場では撮影が
できませんので、写真は手持ちの写真集から出しています。
後期では田中不染筆の絵看板が魅力的でした。東京劇場(東銀座)で使われた歌舞伎のような場面の
絵看板で、公演が終わると捨てられたそうです。運よくエンパクに飾られることになった肉筆画は、水色の
浴衣を着た偉丈夫が風呂場で数人の男と争う場面と、屋敷の縁側で上品な丸髷の妻女が武士の膝元で
泣きじゃくる場面でした。生命力があり、色気があり、しかも清涼で、解説には私が子供の頃に人気が
あった岩田専太郎と通底するものがあると書かれ、大満足でした。
やはりこれからも高田馬場との縁を忘れずに出かけることを続けよう、エンパクもあり神田川の流れは
益々澄んで、桜も山吹も毎年咲くのだから。
3月8日(金)
桜の開花が話題になっても良い頃ですが、今朝の東京は雪がちらついています。季節を愛でるということが、
何となく薄れつつあるように思われてなりません。
このところ暖かい日に虫干しを兼ねて箪笥からきものや帯を出し、過ぎた日々を懐かしんでいます。
今回は袋帯、正装の帯です。すでに派手だと思って若い人に譲ったものもありますが、緑地の成人式用
だけは箪笥の底にしまってあります。当時成人式といえば、ほとんどの人が黒地を締めていました。
郷里の呉服店で初めて見た緑地の帯は新鮮でしたが文様の桐や菊に赤がごってりと入り、好みでは
ありませんでした。店の女将や母、祖母にすすめられて不満ながら求めることになりました。上京して、
渋谷に開業したばかりの東急百貨店本店(2023年に閉店)へ行った折、朱地で同じ文様の帯が目立つよう
ガラスケースの上に飾られていました。東急百貨店本店は日本橋の老舗、白木屋百貨店が名前を変えて
移転した店。郷里でこの帯をすすめた三人と白木屋の呪縛によって、私は手放すことができないのかも知れない。
次の帯は自分で選んだ銀一色。小さな市松地紋に宝尽しの鎌倉紋。二十代半ばは地味なものに
惹かれました。
やはり銀地にトルコブルーの檜垣文様、シンプルでどのようなきものにも合います。
出番の多いお気に入りです。
母が黒留袖に締めていた楽器尽しの帯。展示会へ一緒に行き私が選びました。
京都、桝屋高尾の本袋帯です。本袋は両端に縫い目がなく袋状に織られています。
とても軽くてやわらかいので締めやすく、快適です。
源氏物語を連想させる、片輪車文様の帯。やはり若い頃に日本橋三越で求め現在ちょうど
いいのですが、何だか地味に感じています。(笑)
この錆朱地の毘沙門亀甲帯も出番が多い。締めると気持ちがほっこりします。
一緒にトルコへも行きました。
グレー地の帯は随分探しました。銀座の松坂屋でやっと見つけたお気に入りです。
正倉院文様で格調があるのにさりげなく、心強い帯です。
1970年代後半に求め、一度しか締めていません。きもののお好きは方にはすぐ分かる
龍村平蔵氏の意匠、あけくもという名の帯です。
どの帯にも、そしてきものにも、それぞれ想い出があります。虫干しというと面倒だと思われがちですが、
昔の女性達がしたように、きものや帯を部屋中に並べ一つ一つに触れ、浸ると過ぎた日々が蘇ります。
掛け替えのない時間なのです。
1月4
日(木)
龍文様の布
元旦は快晴で、何となく明るくホッとした気分になっていたが夕方に
思いがけないことが起きた。
能登地震。次の日は日航機と海保機の炎上。
天翔る龍よ、今年の行く末は如何に……。
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